「知る」ということの中にどれほど豊饒な内容が隠されているのか、僕らは忘れがちだ。知の大系といったような大袈裟なことではなく、身体で味わう「知る」体験のことである。「知る」とは、なによりもまず、生き生きとした体験であるはずなのだ。
さらに、「知る」ことが「視る」ことと深く結びついていることを、僕らは忘れていないだろうか。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの手記を思い出してもいい。その手記には「知る」「視る」ことの原初的な喜びが満ちている。そして、美術の中に科学の萌芽が、科学の中に美術の要因が遍在している。もちろん今日の専門分化した科学や美術の発達からすれば、その科学と美術の関係は素朴な段階にある。しかし、こうした素朴さは、天才レオナルドといった過剰な虚飾にまどわされることなく、人間レオナルドの真実を見せてくれるような気がする。そして、「知る」「視る」ことへの一致した情熱がかつてあったことを感じさせてくれる。
同じ情熱が印象派の外光の発見にあったと考えられないだろうか。同様に立体派が事物の実在性を、超現実主義が意識下の世界を発見していった、その情熱である。新しい美術の創造は、たいてい新しい世界の発見・確認という含みを持っている。ただし、科学的発見とは別様の質を持つものであり、科学ではなしえなかった発見であることを、僕らはもっと強調してもよいだろう。
ところで、僕らは数学教育のおかげで幾何学的図形のなにがしかを知っている。だが、それらの図形を味わったことなどあるまい。古川清の作品には、実はこうした図形を味わうという側面があるように思える。彼は簡素な図形、三角形や四角形などの基本形をさまざまに展開する。もっとも、この場合の図形は数学的抽象ではなく、存在物(たとえば鉄)による抽象である。だから僕らは、あらためて彼の作品から図形を、視覚に密接な形で発見することになる。その重量感、その材質感など、視覚の複雑な磁場の中で図形の展開を味わうのである。数学的抽象としての「知る」ことが、「視る」という視覚の世界の中で再発見される、と言ってもいいだろう。
すでに述べたように、それは科学ではなしえない発見であり、今日では美術の特権でもある。古川清は美術の特権の一つを行使しているのだと思う。